2011年12月23日
自分に必要なレッスンという舞台は、
必ず作られ、そして、その場面で必要な学びを得ないと何度も何度も
場所を変えても同じことが現れる。
という話がある。
その舞台は繰り返すたびに厳しくなっていく場合もある。
例えば何かが問題で転職しても
また、同じ問題が起こる
また、会社を変えてもまた起こる、、みたいな。
クラブテニスコーチという仕事がある。
テニスをリクリエーションとして取り入れた初心者や中級者に指導をするわけだ。
そこでは、コーチとか先生とか呼ばれ、また一番テニスがうまいから
偉そうに(笑)指導し、ほんとうに、自分がうまいような気になってくる。
実際にはその場ではうまい。
だが、さらに厳しいボール、コース、そして、ポイントを奪うショットに専念しないから、早く動く必要もなく、、テニス自体が弱くなってしまう。
場合が少なくない。
プレイヤーには負けるけど、教え方はうまいんだと思っていても、
世界で活躍するトッププロなんかがクラブに来ると、愕然とする。
彼らの方が生徒を喜ばせうまくさせるからだ。
そこの部分が、ちょっとつらくて、、テニスコーチはやめた。
ヒーリングの仕事をして
ヒーリングルームでは愛に満ちた話をして、立派に励ましたり指導をする。
確かにそうだ。
だが、社会の荒波の中から隔絶された場所にいて、いいことを言うのは簡単だが、
社会でできてこそで、、じゃあ、ヒーラーが出来るのか?
ということに疑問が起こり、縁があってこの販売の仕事をすることになった。
心ある取引先の人たちと相談したり励まし合ったりしながらやっている。
が、実際に社会の中でヒーリングの、スピリチュアルの、
等価交換のエネルギー交換を感謝のもとにやる、ということを徹してやるのは実に難しい。
が、それをやりぬくことが出来たなら、僕は自分のヒーリング理念に確信を得ることになるだろう。
そしてまた、必要な場所が用意されていくことになる。
川の外で泳ぎの練習をしたり、
川に入らずに人の泳ぎにあれこれ言うのではなく
自分が川に飛び込んで泳ぎ、
その泳ぎを見せたうえで、人にサポートでき、そして、
互いにサポートをしあい発展するような形にしたい。
ヒーリングは立派にできるが社会人として、家族生活、夫婦、親子、そして、仕事としての経済的な面がだめな人は、だめじゃないかって。。
結局社会活動が川、、じゃないかなと。
個人的な意見だけど。
自分自身がヒーリングをすることで、自分自身も癒され
そのたがいに癒されるのがヒーリングだということを言う人もいるが、
自分が癒し切れてもいないで問題があるのに
人にヒーリングをしてお金を取るのはおかしいということを言う人もいる。
どちらも、部分的に見た意見だ。
ただ、その、自分も川に飛び込んでしっかり泳げた方がいい、その方がいいに決まっている。