2007年12月03日
ちょうどどうだろうか?
ぼくらいの世代はマニュアル世代なのかも知れない。
とはいっても、、新人類なんて言葉もはやった。
僕が一番驚いたのは、、
そう、社会に出て、、
学校で教わってきたマニュアルと全く逆のことを会社でいわれたことだ。
理解できなかった。
多少曲がったことがあっても、ばれなければいい。
要領よくごまかせ。
どうしたら自分が評価されるかのほうが、会社の業績を上げることよりも大切。。
社会の利益より、、会社の利益を優先する。。
でも、、対面上は、かっこつけておけ。
若い僕は憤慨した。
正直こんなのが世の中なら、生きていても仕方がないとも思った。
しかし、、
途中で気がついた。
そこにみんなが追いやられているだけで、、
そんかことほんとはしたくないし、
調和的な自分の善意に従ったことをしたいが、、
でも、、それは理想だけど、、できっこないとあきらめていることを。
つまり、、ハートの深い部分では調和を欲しているのだ。
それに気がついた。
そして、、
その調和的な暖かいエネルギー交換の実現、、
これが、、修行なんだろう。うまれてきた。
そう思うことにした。
そして、そう思う。
行きやすくするための方便として、
ルールや戒律やマニュアルが作られる。
絶対的な真理など、そうそう、得られるはずもないが、、
わかっているが、、
これが正しい、あるいは間違っているというルールを求める。
それも行きやすくするための一つの方法だろう。
仏教では、、因果という。
原因と結果の法則という本をSちゃんがずいぶん前に貸してくれたが、、
それは外国人が書いたものだったけど、
同じようなことが書いてあった。
全てに原因と結果があると。
それは事実だと思うし、、また、全ては偶然というのも事実だと思うし、
全く無意味であるというのも事実だと思う。
それは、、それぞれ、、
そう、、どの角度から物事を眺めるかの方法論であり、
そこにある真理は一つなのである。
良いことしたら良いことが起こる
悪いことしたら悪いことが起こる
このルールはわかりやすい。
そして、、この角度から考えるのも生き易い。
でも、、
良い目にあいたいから良いことする、、
というのはなんだか抵抗があるし、
悪い目にあいたくないなら、、悪いことするなというのも、、なんだか、、ひっかかる。
そして、、
また、、惑わせるのが、、
良いことをまったくしていないのに、良い事が連発して起こったり、
これは、、そうそう悩まないとしても、、
良いことばかりしているのに、悪いことばかりが起こったり、、
悪いことばかりしている人に良いことばかり起こるのをみると、、
悩む。。
法則に合っていないからだ。
人は、、
この法則の全てを見ることができないが存在すると考える。
というか、、そう思う。。。
そこで、、
理不尽なことの説明に、、
カルマといって、、前世との関わりを出して説明することになったりもする。。
説明はシンプルになるが、、やっかいにもなる。
過去は変えられないのだから。。
過去の事実は変えられない、、変えることができるのはその意味である。
今を生きているのに過去ばかり考えるのも厄介だが、
過去から学ぶのも有益だ。
因果の法則は、、どうだろう?
自分が何らかのメリットを得るために利用するために神様が作った法則ではなく、
絶対的にある宇宙の法則と考えてしまってはどうだろう?
物事すべてにその原因があり、結果はその原因により作られる。
そして、、その反応速度は、速かったり遅かったり、あるいは事象は(原因・結果)は見えたり見えなかったりもする。
学びが高まれば(人生は学びの舞台であると理解したなら)
見えるものは多くなり、、その法則の回転も速くなるのだろう。
人生、わからないから面白い。
どんどんわかってくるから面白い。
わかってるつもりがわかってないからずっこける。
ずっこけっぱなしだと思ったら、意外に俺ってやるじゃん、なんておもったり、、
紆余曲折を繰り返し、
それがまた、、おもしろい。
面白いのが人生だろう。