2007年08月16日
ある、、友人のレイキマスターがこんなことを言ってきた。
「私はそのままの自分を好きになることをテーマとしている」
とてもいいことだとおもった。
今の自分があることには、実に様々な理由がある。
実に様々なことの積み重ねのもとに今の自分がある。
その理由や意味がわかるものもあるし、わからないものもあるし、
わかろうとしないこともある。
それらをそのまま、ありのまま、受け入れることは大事なことだと思う。
親兄弟、友人からの影響、職業的な経験、遺伝子的なこと、
偶発的な出来事(本来は偶然ではないといわれるが)、
とにかく、、いろんなことが関わっている。
意味のわかるものも、わからないものもある。
それらをひっくるめて、、
好きになる。
光と影が表裏一体なのであれば、、丸ごと好きになる。
いや、、認めるということなのかもしれない。
良いとか悪いとか、、ではなく、、その状態が事実であることをただ認めて受け入れる。
それが大事なんだと思う。
調和的なのか、不調和なのかなんてことは大局的には神様じゃないとわからないのだし、、
(一見悪いことが起こっているようでも、、それがいいことに繋がるために必要なこともある。例えば、、のどが炎症で痛い、、これは、痛いこと自体は悪いことのようだが、、炎症は風邪の菌を殺菌するために起こっていて、、それが終われば、、風邪が治り体調がよくなる。となれば、、のどが痛いことは悪いこととはいえない。川が氾濫した。畑がめちゃくちゃだ。。でも、、川の氾濫で畑には肥沃な土壌が満たされた。翌年から作物が良く育った。となると、、川の氾濫は悪いこととはいえない。。)
つまり、、良いことなのか悪いことなのか、、調和的か不調和かを完全に判断しようすること自体に無理がある。そんなことわかるはずがない。
自分の思考、発言、行動、、それらには、、なんらかの理由がある。
それがなんであっても、そのまま、、認め、そして、、好きになる。
ただ、、それだけなのである。
あえて、、意味づけをしなくては、、やりずらいということであれば、
それらに、、良い意味づけをして生きたらいいということになる。
よい意味づけをしていきやすくする段階を過ぎたら、、
意味づけをしないという生き方に変化していくのだろう。