2007年04月27日
一つの考え方である。
昔の人や未開の土地の人はいろんな言葉で「奇跡」をシンプルに説明する。
それらを近代人は、全く根拠がなく無意味だと馬鹿にすることもあるだろう。
非科学的で根拠がないという理由で。
そうはいうけど、
タコつぼに無神論者はいない。
戦争のときに蛸壺に入り込んだタコのように土にもぐりこんで最前線で戦う人、つまり、いつ死ぬかわからない、手足を失うかもしれない、凄まじい痛みにのた打ち回り命を落とすかもしれない、そんな窮地にいる人はみんな神を信じるようだ。
神様お願い!である。
そんな状況はともかく、
基本としては、
自分でコントロールできないことに完全に頼って人生を生きていたら、当然時自分では全くコントロールができない人生になる。
自分で全くコントロールできない人生など幸せなはずがない。
ゆえに神秘や奇跡に全面的に頼るべきではない。
が、感謝はすべきだろう。
そして、、
これは僕の持論であるが、
神秘や奇跡を淡々と眺める中で
それらが現実的な論理や言葉で説明できる部分は、そういった方法で理解することもまた大切かと思う。
女性は嫌いかな?
神秘のままでほわっとさせておきたいかな?
さて、
科学で何でも説明しようとするのは極めて困難である。
宇宙で起こっていること、いえいえ、地球で起こっていることのほとんどは化学では説明できず、ほんの一箇所にスポットライトをあてて説明しているに過ぎない。
そして、もっと知りたいということで、局部に深く光を当てて部分的に深く見るような傾向もある。
そんな大変な作業は分業化して手分けしたわけだ。
その利点は、顕微鏡で見るような一部分を深く見れるってことだけど、、短所は横の関連性が見えなくなってしまうことだろう。
マクロ的に見ることができなくなる。
全ての生命は関わりあいながら生きているし、
全ての出来事は関連しあっている。
それを因果などと仏教では言う。
この因果が奇跡を論理的に説明するためのヒントとなる。
例えば僕の家の庭である。
これは、神秘の世界だ。
しかし、ぼくは、ある程度神秘を科学的な説明ができる。
なんでそんなによく花が育つの?
神様が助けてくれるんだよ。
愛をかけているからだよ。
こりゃ説明が簡単だ。
科学的な説明は長くなる。
ミミズたちが土を食べて分を出す。
そうすると、植物が吸収しやすい形に栄養素を分解するわけなんです。
そして、かれらが土中で動き回ることで、空気を植物が取り入れやすいふかふかした内部構造を作るんです。
すると適切間水はけもえられる。
水がいっぱいあると根は伸びない。
適切な水はけがあると、根は水を求めて根を伸ばす。
となると、花期に栄養を吸い上げるためのパイプラインができるわけです。
それからそれから、、、、
きりがない。。
でも、、散々、頭をこねくり返しても、、
植物の世界にはわからないことだらけ。
だからおもしろい。
そして、、左脳から右脳にスイッチすると、、植物たちのエネルギーとつながり、エネルギー交流の中でなんともいえない幸せな気分になる。
だから、、はまった(笑)
人生の中で障害というものがある。
これを、苦しみと理解するか学びと理解するかは大切なポイントだと思う。
そこに鋭くメスを当たるというのもきついものだ。
だからこそ、
奇跡の力を正しく使う(そんなことばがあるのだろうか?)ことが大切かと思う。
一般的にせっかちなこの世の中で行われているのは下記のようなことである。
わかりやすいので、サイモン氏の説明していた言葉を借りようと思う。
道路が渋滞していて前に進めずに困っているとする。
目の前に見えると待っている車を2〜3台どかすと少し進めるがそれは状況の完全解決にはならない。
実は3km先で事故があり、車がひっくり返っているから渋滞しているのだ。
としたならば、そのひっくり返っている車をどかさなくては渋滞はなくならない。
ましてや、いらいらしてクラクションを鳴らしまくっても全く無意味だろう。
つまり、サイモン氏が言うところの根本解決とはそういうことだそうだ。
奇跡とは、その3km先の事故のことを知らないのに、
渋滞が解除されたときに人が思うことである。
だから、奇跡はよく起こる。
因果関係があるのに、その因果を知らずに状況が好転することを奇跡という。
奇跡にアプローチすることは、正しく行うとしたなら僕はとてもいことだと思う。
だって、、目の前に見えていることは散々取り組んで努力したのに改善しないんだったら、
つまり、目先の車を1〜2台どかして、さらに5台どかしてくたびれちゃったんだから、、
見えない先の渋滞を作ってる事故車の処理にアプローチしたっていいんじゃないかと素直に思う。
どうでしょうか?